人柄はやや問題があり、言動は粗野で非常に冷淡、特に士官以上に対しては異常なまでに厳しく部下の多くからは嫌われた。規律にやかましく公私混同を忌み嫌う厳格な人物でもあり、俗物が多い同僚達からは煙たがられる事が多かったという。よって友人も少なく、元帥の中で親しかったのはウディノ、ネイ、グーヴィオン=サン=シールぐらいのものだった。逆に忌み嫌っていたのはミュラ、ベルナドットの両名という。 アンドレ・マッセナ(Andre Massena、1758年5月6日 - 1817年4月4日)は、フランスの軍人。第一帝政下の元帥。エスリンク大侯爵。リヴォリ公爵。ナポレオン戦争では主に方面軍司令官を務め、スイス戦役や半島戦争などに従事した。日本語ではマセナと表記する場合もある。 前半生 1758年5月6日、マッセナはニースの貿易商の息子に生まれた。幼い頃に両親を失い、石鹸製造業を営む叔父に引き取られたが、13歳の時に家出し、武装商船(一種の私掠船、海賊)の船員になった。 1775年、船員を辞め、一兵卒としてフランス陸軍に入隊し、ロイヤル・イタリアン連隊に不動産 された。下士官の最高位である曹長(准尉)まで昇進したものの、貴族出身者以外にはそれ以上の昇進の見込みがなかったため、1789年に除隊した。その後、密輸業を営んでいたが、1791年に再び軍に入隊した。かつての軍歴が評価され、1792年までに大佐に昇進した。 将軍時代 フランス革命戦争が進行する中、マッセナはイタリア方面軍で着実に功績を上げ、2年で将軍まで昇進した。1794年8月のサオルジオの戦いで最初の勝利を挙げた。1795年8月3日、ロナートの戦いにおいてオーストリア軍を破ったことは、彼にとって最初の著名な勝利となった。また、この戦いで初めてナポレオン・ボナパルトと対面した。 1796年、ナポレオンが新任のイタリア方面軍司令官となると、マッセナは彼の指揮下に入り、イタリア遠征を進めていった。1797年1月14日、リヴォリの戦いで、マッセナは驚異的な機動によってオーストリア軍の後背をつき、勝利の立役者となった。1799年、マッセナはスイス方面軍司令官に任命され、第二次対仏大同盟に基づいてヘルベティア共和国(スイスに樹立されたフランスの傀儡国家)へ侵攻してきたロシア・オーストリア同盟軍と戦った。同年9月25日から26日にかけて行われた第二次チューリッヒの戦いで同盟軍を破り、大いに名声を高めた。 1799年、ブリュメールのクーデタによってナポレオンが第一執政となった。1800年、マッセナはイタリア方面軍司令官に任じられ、イタリアに派遣された。しかし、数で勝るオーストリア軍の攻勢の前に、フランス軍は防戦に回らざるをえなくなった。また、フランス軍は盛んに略奪を働いたため、現地人の不満を招いた。同年3月、ジェノヴァで包囲され、3ヶ月にわたる篭城戦の後、6月4日に降伏した。このため、マッセナ軍は6月14日のマレンゴの戦いには参加できなかった。その後、マッセナは一時軍籍を離れ、議員を務めた。 元帥時代 1804年、皇帝に即位したナポレオンは、マッセナを軍務に復帰させ、合わせて元帥に昇進させた。1805年、再びイタリア方面軍司令官に任命され、ヴェローナを制圧してオーストリア軍の進軍を阻み、さらに同年10月30日のカルディエロの戦いでオーストリア軍を破って多数の捕虜を得た。1806年、ナポレオンの兄ジョゼフがナポリ王になると、マッセナはナポリ軍の指揮権を与えられた。しかし、このときも略奪を働いたために現地人の反感を買った。1808年、リヴォリ公爵に叙せられた。 1809年、第五次対仏大同盟が結成されると、マッセナは第4軍団司令官となり、オーストリアへ侵攻した。アスペルン・エスリンクの戦いで、フランス軍の前衛が敗退したとき、マッセナの第4軍団は友軍を救援し、さらに橋頭堡を守り抜いた。この功績と、続くヴァグラムの戦いで上げた功績により、エスリンク大侯爵に叙せられた。 1810年、FX はポルトガル方面軍司令官に任命され、半島戦争に加わった。同年9月27日、ブサコの戦いで初めて同盟軍と衝突した。イギリス軍司令官のウェリントンは、決戦を避けて同盟軍をトレス・ヴェドラス線まで後退させた。マッセナ軍はトレス・ヴェドラス線を抜けないまま、徐々に消耗していった。1811年、イギリス軍の援軍が到着すると戦況は逆転し、同年3月5日のバロッサの戦い、同年5月3日のフェンテス・デ・オニョーロの戦いなどでフランス軍は敗退を繰り返した。マッセナは軍司令官を解任され、マルセイユの司令官に降格された。 晩年 その後、ナポレオンが退位し、ルイ18世によって王制が復古されても、マッセナはマルセイユ司令官を務め続けた。エルバ島からナポレオンが脱出し、いわゆる百日天下が始まると、マッセナは彼を支持したが、軍に加わることはなかった。ワーテルローの戦いでナポレオンが敗北した後、王制を支持しなかったことを理由に、全ての軍務を解任された。1817年4月4日、パリで死亡した。 評価 マッセナは独占欲が強く、貪欲な人柄であったとされている。また、戦場に男装させた愛人を連れて歩くほどの女好きでもあった。その性格からしばしば問題を起こし、特にイタリアやスペインでの大々的な略奪行為は批判されている。ただし、FX にあっては略奪は兵站の一環として考えられていた点は考慮しなくてはならないだろう。 一方で軍事指揮官としては非常に優秀な人物であり、特にリヴォリの戦いに見られたような機動戦を得意とした。マッセナをナポレオン麾下の元帥の中で最優秀と評価する歴史家もいるほどである。ナポレオンも彼の能力を高く評価しており、一時は軍務を離れていたマッセナを、即位後直ちに元帥に復帰させたことはその表れといえるだろう。半島戦争で敵となったウェリントンも、マッセナの後任司令官となったスールトと比較し、マッセナの力量の方が上であると評価している。 ジョアシャン・ミュラ(Joachim Murat-Jordy、1767年3月25日 - 1815年10月13日)は、フランスの軍人・元帥。後にナポレオンの義弟となりフランス皇族、ナポリ王ジョアッキーノ1世(在位1808年-1815年)。 仕官 旅籠屋を営む傍らタレーラン家の先物取引 でもあったピエール・ミュラの末っ子(12人兄弟だった)として生まれたジョアシャン・ミュラは、両親の希望で聖職者になるため神学校に入学(このとき後々まで親友となるベシェールと出会っている)するが全く不向きで、1787年に女性と駆け落ちして放校された。無一文で放浪していた時にたまたま出くわした騎兵中隊に飛び入りで参加したことから軍歴が始まり、2年ほどで軍曹にまで出世するが一時帰郷して小間物屋を開く。風采が良く人気者だったため郷里のジャコバン派としてかなり有名になったが、やがて軍に復帰し浮沈を繰り返しつつ若手の騎兵指揮官として頭角を現していった。1792年には少尉になっているが、この頃士官選出は兵士の選挙によっていたので、このことは彼が部隊でも人気者だったことを示している。 台頭 1795年のヴァンデミエールの反乱においてパリ市内での大砲奪取任務の参加者を募集していたナポレオン・ボナパルト(当時バラスの副官だった)と出会い、任務に志願して見事成功させ王党派の反乱鎮圧に貢献する。ナポレオンはこの功績で脚光を浴びることとなり、ミュラとの出会いは二人にとって大きな転機となった。その後ナポレオンのイタリア遠征に自ら志願して参加、エジプト遠征では負傷するものの見事な働きを見せ、ナポレオンの側近として、また優秀な騎兵指揮官として名声を確立させた。1800年にはナポレオンの妹カロリーヌと結婚、名実共にナポレオン家の一員となる。1804年には元帥に昇進。数々の戦いでその騎兵指揮官としての能力を存分に発揮し、ナポレオンをして「世界最高の騎兵」と賞賛せしめたが、高位の軍司令官としては判断力、決断力共に欠け、元帥昇進後あたりから失策が目立ち始める。 離反 1806年には大公となり、1808年にはFX を与えられジョアッキーノ1世を名乗る。しかし、こうした栄達は彼を保守的・退嬰的にし、また権力欲が極めて強くかつ頭が回って気も強い妻のカロリーヌに焚きつけられて、自らの王国を守ろうとする態度が露骨になると共に、ナポレオンとの関係もぎくしゃくし始めた。ロシア遠征に参加するが、これが大敗に終わると自らの地位保全のために敵国イギリスやオーストリアと勝手に交渉を始め、1814年に至り完全にフランスから離反する。 転落 フランスからの離反の決断とともにイタリア統一を夢想し始めるが、そんな野望が通る筈もなく、ウィーン会議では王位を剥奪されることが決まってしまう。ミュラはひとたび裏切ったナポレオンの元に戻ることを決意し、イタリア方面での抑えを期待したナポレオンもそれを認めたが、ナポレオンがエルバ島を脱出すると独断でオーストリアと開戦し大敗。フランスに逃げ戻ったが激怒したナポレオンからは仕官を認められず、ワーテルローの戦いの後僅かな手勢と共にナポリ奪回の兵を挙げて失敗、逮捕され処刑された。