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初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, 1769年4月30日-1852年9月14日)はイギリスの軍人、政治家。外務大臣をつとめたリチャード・ウェルズリーは兄。ナポレオンとの戦いで軍功を重ね、最終的にワーテルローの戦いで打ち破ったことで知られる。通称は「鉄の公爵」(Iron Duke)。後に首相となる。愛馬はコペンハーゲン。 経歴 モーニングトン伯ギャレット・ウェルズリーとアン夫妻の四男としてダブリン(アイルランド)に生まれる。1781年、父の死に伴いブリュッセルに移住。ついでフランス西部アンジェのピニロール陸軍士官学校に入学する。 1783年に73連隊に入隊し、軍人としてのキャリアを開始させる。1790年にはアイルランド議会の議員に選出され、革命フランスとの開戦準備、カトリック教徒への参政権の付与などを主張する。1794年、初の実戦参加として、対仏連合軍傘下の軍人としてベルギー・オランダ戦線に加わり、ヨーク公の退却作戦を支援する。 1797年にはカルカッタに赴任、ベンガル地方の治安警備を担当する。1799年の第四次マイソール戦争、1803年のマラータ同盟との戦闘などを経て頭角を顕し、1804年に本国よりナイトの爵位を贈られる。しかし、ナポレオン政権との対決を睨み、翌1805年自ら希望して帰国する。 帰国直後、ハノーファー遠征軍に参加。1806年にはイギリス議会の議員に選出され、同年ラングフォード卿の娘キャサリン・パクナムと結婚。翌1807年にはアイルランド大臣に就任する。同年コペンハーゲンに遠征し、ナポレオンと提携するデンマーク軍を撃破し、翌1808年中将に昇進した。 同年、イベリア半島において半島戦争が勃発すると、ナポレオンに反抗するスペイン・ポルトガルの民衆を支援すべく、約9000の兵を率いて同地に下向する。初め半島西北端のコルーニャに上陸し、次いでリスボンに下向してジュノー指揮下のフランス軍を撃破。その後一旦帰国するが、その後のナポレオン本軍の半島侵攻とスペイン全土制圧を受け、1809年4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度半島に派遣された。同年7月、イギリス軍・スペイン軍を率いて、タラベーラ・デ・ラ・レイナにて大激戦の末フランス軍を撃破。この時ナポレオンはウィーン駐留中であったが、この報に接し初めてウェルズリーの存在を強く意識したという。 その後もポルトガルを拠点にフランス軍への抵抗を続け、1810年にはリスボンに侵攻してきたフランス軍を撃退し、ポルトガル攻略を断念させた。1812年にはスペインにおけるフランス軍の勢力衰退を見て同国に侵攻し、マドリードを攻略して占領下に置くことに成功。その戦功をもって伯爵に任ぜられた。やがてモスクワ遠征の失敗などを経てナポレオンが四面楚歌に陥ると、半島におけるウェルズリーの英軍の勝利は決定的なものとなり、1813年にはピレネー山脈を越えてフランス領内に侵攻。1814年4月にトゥールーズ郊外にてナポレオン退位の報に接し、同年6月にイギリスに凱旋帰国。国民の熱狂的な歓迎を受け、その名声を不動のものにした。 同年7月にはフランスFX イギリス公使に就任、さらに翌1815年にはウィーン会議におけるカッスルリー外相の全権代理を務めた。ついでナポレオンがエルバ島を脱出してパリに復帰すると、これを迎え撃つべくブリュッセルに急行。1815年6月18日のワーテルローの戦いにおいて、ブリュッヘル元帥率いるプロイセン軍と協力してナポレオンを撃破し、ついにその野望を最終的に打ち砕くに至った。 その後は政治家として活躍し、1828年には首相に就任した。ウェルズリーはイギリス最後の公爵位を持つ首相である(1814年に公爵位に叙爵)。首相としては1829年にカトリック解放令(イギリス・アイルランドでは国教会成立後、カトリック教徒は様々な差別を受けていた)を発したことで知られるが、その一方で保守政治を行うなど、評価は必ずしも一定ではない。旧式の軍隊に固執したことでクリミア戦争における負傷者を増やしたとして、フローレンス・ナイチンゲールなどからは否定的な評価を下されている。1971年から1991年にかけて用いられた5UKポンド紙幣に肖像が登場している。 他に日経225 の総長も勤めたことでも知られる。また、世界で初めて鉄道の開通式(1825年)に招かれた賓客でもあるが、ロケット号による死亡事故以降は大の鉄道嫌いになったとされる。 ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1758年9月29日 - 1805年10月21日)は、アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などで活躍したイギリス海軍提督。トラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破り、ナポレオンによる制海権獲得・英本土侵攻を阻止したが、それと引き換えに自身は戦死した。 生涯 ノーフォーク、バーナム・ソープ村の教区牧師の第六子として生まれた。母方の叔父のモリス・サクリングが海軍の軍人であった。ウォルポールとも遠縁にあたる。12歳の時(1770年)、父が病床にあり家計が逼迫していたこともあって、戦列艦の艦長だった叔父を頼って海軍に入り、北洋探検航海などに参加した。1774年から東インド方面に勤務するが、マラリアにかかって帰国する。 1777年、海尉昇進試験に合格。翌1778年には海尉艦長として初めての指揮艦を得る。1779年に21歳で勅任艦長となる。1784年、最先任艦長(副司令官格)として小アンティル諸島の鎮守府に赴任。独立後間もなかったアメリカ商船の取り扱いなどをめぐって、現地の上官や農場主たちとの間で摩擦を起こす。1787年、西インド諸島のネヴィス島で知り合った、未亡人フランシス・ニズベットと結婚。 1793年、フランス革命戦争の勃発により、戦列艦アガメムノンの艦長に任ぜられ、地中海方面に展開。10月にフランス艦との戦闘を初めて経験する。1794年、コルシカ島で陸上戦闘を指揮し、カルヴィ攻略戦で右目の視力を失った。 サン・ビセンテ岬 1796年、新任の地中海艦隊司令官ジョン・ジャーヴィスのもとで外国為替 に任ぜられる。1797年、サン・ビセンテ岬の海戦に参加。後方の戦列を担っていたが、艦隊司令官の命令を無視して逃走するスペイン艦隊へ突入、激しい砲火をまじえ、結果として2隻の敵艦を拿捕した。この功績でバス勲爵士に叙せられ、青色艦隊少将へ昇進する。 同年、カナリア諸島のテネリフェ島の攻略に失敗する。戦闘で右腕を負傷し切断。こうして隻眼隻腕の提督となった。 ナイル 1798年、地中海分遣艦隊を率いて外国為替証拠金取引 で、エジプト遠征を企てるナポレオンのフランス艦隊の封鎖任務にあたるが、嵐をさけて寄港していた隙に仏艦隊の出港を許してしまう。その後も追跡を続けたが、フリゲートの不足などの悪条件もあって、結果的にナポレオンのエジプト上陸、アレキサンドリア入城を許すことになった。 しかし、アブキール湾停留中だったフランス艦隊を発見すると、浅瀬を背にして縦陣をしく当時としては万全とされていた防御姿勢をとる同艦隊に対して、自分の艦隊を艦と艦の間をすりぬけさせ、狭撃するという戦術でこれを撃滅してのけた(ナイルの海戦)。この海戦の敗退によって、フランス海軍には、ネルソン恐怖症が広がり、後にトラファルガーにまで引きずることになる。 これにより、ナポレオンはヨーロッパへの帰路を絶たれエジプトに孤立し、やがてその東方進出の野心は潰えることになる。ネルソンはこの戦功によって「ナイル及びパーナム・ソープのネルソン男爵」に叙せられる。 コペンハーゲン 1801年、青色艦隊中将に昇進。副司令官としてコペンハーゲンの海戦を指揮。あまりの激戦に司令官であるハイド・パーカーが「戦闘中止」を命じた信号旗を、見えない右目に望遠鏡を当てて黙殺した逸話が有名だが、厳密にいうとこれは「必要なら戦闘中止せよ」の信号を、副司令官のネルソンがその必要なしと各艦に転送しなかったということである(ちなみに、これは黙殺したネルソンをパーカーが庇った、という説もある)。ともあれ、それほどの戦いを辛くも勝利し、彼は戦功によって子爵に叙せられる。 フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガー岬沖に捕捉、二列の縦陣で敵艦隊に接近戦を挑む、いわゆる「ネルソン・タッチ」で勝利をおさめる。 戦闘開始を告げ、兵士たちを鼓舞した“England expects that every man will do his duty”(英国は各員がその義務を全うすることを期待する)の信号旗は、現在も名文句として残る。ネルソン自身は“Nelson convinced that every man will do his duty”(ネルソンは各員がその義務を全うすることを確信する)としたかったのだが、続けて「接近戦を行え」の指示を送らなくてはならなかったので、信号士官の進言を受け、より少ない旗ですばやく信号をおくれる、「英国は〜期待する」の方を採用したものだった。後に名文句となるも、命令的で尊大な文章であるため、この時は「いまさら言われなくても義務は果たしている」と不満の声があがったり、水兵の士気に悪影響を与えると考えて、内容を伝達しなかった艦長もいた。次席指揮官のカスバート・コリングウッドは、戦闘開始寸前に、戦闘指揮とは関係無い信号の伝達に不満を感じたと書き残している。 一方で連合艦隊のヴィルヌーブ提督も接近戦を狙うネルソンの意図は察しており、各艦に狙撃手を配置していた。特にリュカ艦長などの一部艦長は砲撃よりも小銃射撃・切込みによる水兵殺傷を主眼としており、ネルソン自身はその戦勝と引き換えに狙撃され、戦死する。旗艦「ヴィクトリー」上で指揮を執るネルソンは4つの勲章(正確にはそれを模した布製のレプリカ)を胸にしており、狙撃をおそれた副官らからコートを羽織るように進言されても、「立派な行いでこれをもらったのだ、死ぬ時もこれをつけていたい」と退けた。 ただ、実際当時のマスケット銃でネルソン個人(或いは高級将校個人)を狙った狙撃というのは困難で、恐らく切込み突撃に備えて射撃していた海兵隊の視界に偶然入って狙撃されたというのが正しい解釈である。実際、彼以外の多くの将官も目立つ格好をしていた。