父親もピョートル大帝に仕えた軍人である。家系は帝政ロシアで重きを成したジョチ・ウルス系モンゴル貴族の系譜のひとつであり、クトゥーゾフの姓は、マムルーク朝第3代スルタン、クトゥズと同じ、テュルク系人名である。 1757年、砲兵学校に入学。14歳で軍隊入りし、対ポーランド戦(1764年 - 69年)、対トルコ戦(1768年 - 74年、1787年 - 92年)で勇名を挙げた。1774年、トルコとの戦争で右目を失っている。隻眼の軍人としては同時代にイギリスのネルソン提督がいる。 1805年の対フランス戦争ではロシア・オーストリア連合軍の総司令官として、ナポレオン1世が率いるフランス軍と戦うが、アウステルリッツの戦いで敗北。この後、地方の知事職に左遷されるが、対トルコ戦(1806年 - 12年)で再び軍功を挙げ、ブカレスト条約の締結に貢献した。 ナポレオンのロシア遠征(1812年)が始まると、総司令官バルクライ・ド・トーリの焦土作戦・退却作戦に批判が高まり、世論に推される形で、クトゥーゾフが後任の総司令官に就任する。彼の着任後、仏露両軍はボロジノの戦いで激突。両軍ともに甚大な被害を出した後、結果的にロシア軍は退却を余儀なくされるが、フランス軍も決定的な勝利を得るには到らなかった。 その後クトゥーゾフはバルクライと同様に退却を強行、聖都モスクワすら放棄し、ひたすらフランス軍の自滅を待つ作戦をとる。冬の到来で根負けしたナポレオンがついに退却を始めると、執拗な追撃戦を敢行し、フランス軍の撃退に成功した。この功績により、スモレンスク公の称号を授けられる。翌年もフランスへ侵攻するロシア軍の指揮を執ったが、ブンツラウにて病没。67歳。 評価 軍事的天才ナポレオンに黒星をつけた数少ない人物の一人であるが、彼に対する評価はまちまちである。国民的英雄と称えられ、彼の名を冠した勲章まで設けられる一方、消極的で臆病な老軍人、みすみすナポレオンを逃がした無能者と非難されたりもしている。 クトゥーゾフが退却するフランス軍に大規模な攻撃を仕掛けなかったのはなぜか、そもそもロシア軍の焦土作戦自体が計画的なものであったのか、偶発的なものにすぎなかったのかなど、ロシア遠征時におけるその作戦構想については、現在でも様々に意見が交わされている。ただ、クトゥーゾフやバルクライが実施した作戦は、前世紀にはピョートル大帝が大北方戦争で、次世紀にはソビエト連邦軍が独ソ戦(大祖国戦争)で同様の作戦で成功を収めていることもあり、広大な領土を利用したロシア式戦法の一例として、一定の評価を与える事では、概ね一致しているようである。 3代に渡って仕えた宿将であるが、アレクサンドル1世とは折り合いが悪かった。アウステルリッツでは名ばかりの司令官に格下げされ、作戦上の進言も軽視された。また1812年、彼の総司令官への抜擢に当たっては、アレクサンドルはかなり渋っていたと言われる。 かなりの肥満体質で、女癖も悪かったと言われている。同時代人からも揶揄されるのは、こうした風評や外見にも起因していると思われる。その一方、世論の後押しで総司令官に抜擢されたように、兵士や国民からの人気は高かったようである。 レフ・トルストイの『戦争と平和』では、主要人物として登場、高い評価をされている。 林 則徐(りん そくじょ、LinZeXu、乾隆50年7月26日(1785年8月30日) - 道光30年10月19日(1850年11月22日))は、中国清代の官僚、政治家。欽差大臣を2回務めている。 字は少穆(しょうぼく)。諡は文忠。イギリスによるアヘン密輸を強硬に取り締まり、怒ったイギリスはアヘン戦争を引き起こした。 経歴 福建省侯官に生まれる。父は科挙に挑戦して悉く失敗したため、貧しい教師生活をしていた。林則徐はこの父の無念を晴らすべく学問に励み、1811年(嘉慶16年)、27歳の時に科挙に合格し進士となる。北京の翰林院に入った林則徐は、多くの行政資料を目の当たりにしてその研究に励んだという。その後地方官を歴任し、当時問題とされてきた農村の再建と、それに欠かせない治水問題に積極的に関わるとともに、不正な官吏の大量処分を断行した。彼の地方行政官としての手腕は今日でも高く評価されている。また、彼のアヘン根絶の取り組みもこの時の経験から強く意識されたものであると考えられている。 1837年(道光17年)に湖広総督(現在の湖北省、湖南省を合わせた地方の長官)になる。この時に管内でのアヘン根絶に実績を上げ、黄爵滋の「アヘン厳禁論」に賛同し上書した。その実績と議論の精密さを道光帝は評価し、1838年に林則徐をアヘン禁輸の欽差大臣に任命した。 広東に到着した林則徐は、外国為替 商人が持っているアヘンを全て没収し、処分した。これに怒ったイギリス商人たちは林則徐に抗議し、最終的にアヘン戦争を引き起こすことになった(詳しくはアヘン戦争の項を参照)。 現地のイギリス商人を支援するために派遣されたイギリスの東洋艦隊は、広東ではなく北京に近い天津に現れた。間近に艦隊を迎えた清の上層部は狼狽し、慌てて林則徐を解任し、イギリスの意を迎えることに必死になった。林則徐の後任のg善はひたすらイギリスに低姿勢で臨み、結果清が大幅に譲歩した南京条約を結ぶ事になった。 欽差大臣を解任された林則徐は新疆に左遷された。しかし林則徐はここで善政を布いた事で住民から慕われた。林則徐にとってもこの場所で南下するロシア帝国の脅威を実見できた事は大きな収穫であり、進士の後輩に対し「将来清の最大の脅威となるのはイギリスよりもむしろロシアだろう」と言い残した。これが後の左宗棠らの塞防派を形作る事になった。 1849年(道光29年)に隠棲したが、太平天国の乱が勃発すると召し出され、太平天国に対する欽差大臣に任命された。そして任地に赴く道中に病死した。 評価 林則徐が解任された理由の一つとして、FX の清の官僚には広東の商人から賄賂を受け取っている者が多く、林則徐によりその金が絶たれた事を恨む者がいた事がある。もしも林則徐がそのまま広東で指揮を取り続けていれば、イギリスを撃退できたのではないかという仮定はそれほど無理な事とも言えず、後世の中国人は強く惜しんだ。また、直隷(首都圏、現在の河北省)の再開発を行って財政・国防上に資するべきであるという長年温めてきた構想(『畿輔水利議』)を欽差大臣就任直後に上奏したために、他の高官(当時の出世コースであった直隷総督経験者が多かった)から「自分達の直隷での仕事ぶりを怠慢だと誹謗された」との恨みを買った事も原因の一つであるとされている。 常に清廉潔白で私事を省みず、左遷されても常に国家の事を考え続けた姿は後世の人間から強く尊敬されている。 曽 国藩(そう こくはん、Zeng Guofan, 嘉慶16年10月11日(1811年11月26日) - 同治11年2月4日(1872年3月12日))は中国清代末期の軍人、政治家。字は伯函、号は滌生(てきせい)、諡は文正。湖南省湘郷県の出身。CFD した清軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。 略歴 1811年 湖南省湘郷県にて誕生。1838年、進士となるが、1852年に礼部右侍郎在職中に、母の死去により、喪に服すため帰郷。 太平天国の乱が勃発すると政府により団練の組織を命ぜられ、郷勇(義勇軍的な私兵部隊)を組織する。これが後の湘軍の元となる。清の正規軍である八旗は堕落しており、太平軍に連戦連敗であったが、曽国藩率いる軍隊は厳格な軍紀を適用したため、強さを発揮して太平天国軍を破った。湘軍は1858年には九江を、1860年には安慶を包囲して翌年に陥落させた。 このことに政府は曽国藩に対して恐れを抱きつつも、政府軍ではどうすることも出来ず、曽国藩を両江総督(江蘇省・浙江省の2つを合わせた地方の長官)、欽差大臣とした。 1864年、激しい攻防戦の末に日経225 の首都天京(南京)を陥落させ、太平天国を滅亡させた。この功績により侯爵とされる。 乱後、その功績と兵力の大きさにより、政府から警戒されるようになるが、湘軍を解散させることでこれを避ける。洋務運動にも参加し、洋式の兵器工場の設立・留学生の派遣などを行った。また後進の育成にも力を注ぎ、その幕下からは李鴻章・左宗棠など多くの人材を輩出した。 1868年、清朝に仕える漢民族としては初めて、地方官としては最高位に当たる直隷総督となった。在任中には「天津教案」が発生し、その処理に当たっている。1870年に両江総督馬新貽が暗殺されると、曽国藩が両江総督に復帰した。1872年、在職のまま死去。 曽は文人としても一流であり、その作品は『曽文正公全集』・『曽文正公手書日記』に纏められている。また朱子学者としても著名であった。 両広総督の曽国?は弟、外交官の曽紀沢は長男である。 現代中国と曽国藩 現代中国では、共産党政府が正義扱いしている太平天国を鎮圧した人物であるために、長らくくりっく365 扱いされてきた。しかし2000年前後に曽国藩の大ブームが起こり、書店の人文書のコーナーに曽国藩に関する本が平積みされる事態まで起こった。 こうした「曽国藩」ブームは、政治家として位人臣を極め、さまざまな新しい政策を行いつつも、失脚することなく最期まで富貴のまま終わった彼の生きざまを学ぼう、ということから起こっていたようだ。改革開放によって生じた中国人の志向がよく出たエピソードである。なお、本の内容には曽が作った家訓や、身の処し方について記したものが多い。